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今回のお題は蚕種(さんしゅ)についてです。

当社は信濃蚕業(さんぎょう)株式会社として1946年に創業しました。蚕業ということですから「蚕」に係わる仕事(蚕種、養蚕、製糸、織物)であり、その中で蚕種を生業としておりました。養蚕の期限は中国であり日本には弥生時代に伝わり、魏志倭人伝にも養蚕に関する記述があるようです。蚕種は聖徳太子の時代に韓国経由で持ち込まれましたが、本格的な養蚕は江戸時代に始まったとされています。

ところで、「蚕種」とは商品化した蚕(かいこ)の卵のことです。蚕種の良否は養蚕の豊凶や生糸の品位を左右しますから、品質の高い蚕種をいかに生産するかが課題です。江戸時代、蚕の病気を媒介する昆虫が少ない特異地域(福島市、上田市周辺)に特産地が成立しました。1850年頃(安政年間)、蚕糸業の先進国はイタリア、フランスでしたが、蚕種に微粒子病が蔓延したため日本に蚕種輸出の要請があり、多くの蚕種業者が外貨の恩恵を受けました。明治以降、蚕業は国家の重要な産業であり、大臣の許可を受けた者だけが蚕種の製造販売を行い、病毒検査から販売する蚕種1箱(2万粒)ごとの内容表示に至るまで法律によって規制さていました。

日本の蚕業は1960年代から徐々に右肩さがりとなり、当時の経営は蚕種生産が年間100万箱を下回った時点で会社の業態を変えなければならないと考えていたとのこと。当社が蚕業から精密機器組立への業容を変換しはじめたのは1968年頃ですから、この頃、蚕種ビジネスに見切りをつけたということになります。

さすがに当時のことを覚えている人は社内にも少ないのですが、1969年に入社したという方からときどき当時の様子を聞くことがあります。その中で、蚕種は高品質な繭を農家が作るための大元であり、品質管理には非常に気を配ったとのこと。また、蚕種(卵)を効率的に生産する仕組みが通常の養蚕(生糸生産)とは別にあり、養蚕では不要?な成虫(蛾)を取り扱うことが主要なサプライチェーンでした。ちなみに雄雌の判別も、幼虫、さなぎ、成虫のどの段階でも可能で、この判別を専門にする社員もいて、各地の農家に外出して作業を行っていたとのことです。

当社には蚕種事業に使った道具や治具などが倉庫に少し残っていますが、多くは蚕糸博物館に寄贈しました。かつて日本経済を支えて歴史的な産業でありますので、もし、ご興味があれば出かけてみてください。

最後に上述の方から聞いたエピソードをひとつ。蚕のさなぎが食用になっていたことは比較的知られていると思いますし、韓国では珍味としていまでも食べられていますが、雄の成虫(蛾)の羽をとった胴体部分を炒り煮にして食べたとのこと。しかも、これが美味で、当時、これを飲み屋に持っていけば酒代になったと懐かしそうに話していました。にわかに信じられないので、当時、親御さんが蚕種事業に従事していた人に聞いてみましたら、やはり「美味しかった」とのこと。昨今、昆虫食は、高たんぱく、低カロリーで注目を集めていますから、また誰か商品化するかもしれませんね。